斎藤病院の歴史

帝国脳病院・青山脳病院 時代

山形県出身の齋藤紀一(文久元年/1860年8月1日~昭和3年11月17日)が、埼玉県秩父郡大宮町での医院開業を経て東京・浅草に「浅草医院」を開設したのが明治24年。
次いで明治32年には東京・神田に「東都病院」を開設したのだが、翌明治33年11月17日に当時としてはまだ少数派であった精神科医への転身を目指してドイツへ留学に出発。
帰国後の明治36年、東都病院を「帝国脳病院」へ改称するとともに、東京・青山の地で新たに「帝国脳病院・青山病院」を新築・開設した。明治36年8月の開院時は250床だったが、その後順次増築を重ね、明治40年の第5次工事完了時点では400床の大病院であったという。病院には西洋風の7つの塔がそびえ、当時は東京名物の一つであったらしい。

帝国脳病院・青山病院の写真

この青山脳病院は、大正12年9月1日に起こった関東大震災にもしっかり耐えたのだが、翌、大正13年12月29日に発生した火災によって全焼してしまう。

帝国脳病院ジオラマ

大正15年4月、世田谷・松原の地へ移転・新築された300床の病院が新たな「青山脳病院本院」として再スタートし、青山に建て替えられた小規模な病院は「青山脳病院分院」とされた。
この頃の病院長は齋藤茂吉(*)であるが、昭和17年10月に「本院」のほうが火災によって一部消失。この直後に管理者は齋藤茂太院長へ交代している。

*齋藤茂吉(明治15年5月14日~昭和28年2月25日)
山形県出身。幼少時より神童と呼ばれていた守谷茂吉を、明治29年に紀一が書生として東京へ呼び寄せ、のち明治38年に婿養子としたものである。巣鴨病院(のちの松沢病院)勤務のあと、長崎医学専門学校教授や青山脳病院院長として精神医学にたずさわる一方で、歌人として活躍した。
大正2年10月に第一歌集「赤光(しゃっこう)」を世に出しているが、当院の財団名「赤光会」はこれに由来している。昭和26年に文化勲章受章。

その後、昭和16年12月から始まった大東亜戦争の戦火は激しくなる一方で、昭和20年3月の東京大空襲など本土への爆撃も本格化してきた。このため複数の精神科病院が郊外へ疎開したり、公的医療機関へ衣替えすることなども政策として推し進められ、昭和20年3月末に松原の青山脳病院本院は東京都(昭和18年7月に東京府から東京都になった)へ移譲され、「松沢病院梅が丘分院」となった(のちの東京都立梅が丘病院である)。
だが、その数ヵ月後、昭和20年5月25日の空襲によってこの病院も半焼し、青山に残された小規模病院(この頃は青山脳病科病院と称した)のほうも同日、空襲で完全に焼失してしまった。創立43年目で青山脳病院の歴史に幕が下ろされたのである。

昭和20年8月15日、終戦。

斎藤神経科

戦後間もなくの昭和21年、世田谷区代田に“斎藤神経科”(当時「神経科」はまだ正式の標榜科でない)が開設され、昭和25年11月には新宿区四谷の地に改めての「斎藤神経科」がオープンした。この診療所は院長家族の自宅を兼ねるとともに9室の病室をもった有床診療所で、電話室や風呂も入院患者さんと家族の共用であることから、患者さんが家庭内を行き来するなど、本当の意味で“家庭的な”医療機関であった。

新宿区四谷の斎藤神経科(改修後の昭和40年代)
新宿区四谷の斎藤神経科(改修後の昭和40年代)

宇田病院・斎藤病院

宇田病院は、故 齋藤茂太 名誉院長の岳父である宇田倹一(明治29年~昭和50年)が昭和14年8月に北多摩郡多摩村蛇窪(現在の府中市浅間町)に開設した病院である(ちなみに、この「蛇窪」という地名は病院の隣にある小さな公園に「蛇窪台公園」として、かろうじて残っている)。宇田病院は「武蔵野の閑静な趣を持った家庭的な病院にする」ことを念頭に開設されており、「療養環境を考慮しつつ少ない患者さんをじっくり診る」という目的から、病室はすべて南向きの二人部屋で、病床数は44床であったという。
「閑静な武蔵野」は昭和30年代までは保たれていたが、その後は急速な市街地化が進み、現在その頃の面影はない。
昭和31年秋、齋藤茂太(大正5年3月21日~平成18年11月20日)が宇田病院を引き継ぎ、斎藤病院と名称を改めた病院は、昭和32年4月1日開設として再スタートした。
病院の外観は当時の精神科病院のスタンダードで、木造建築の管理棟や病棟に農耕作業場を備えた作りであったが、 宇田院長時代から引き継がれた本格的なテニスコートがあったことも当院の特徴である。
木々の緑に囲まれた木造の病院管理棟や病棟は、古き良き時代を感じさせる。

昭和30年代の斎藤病院正門と管理棟
昭和30年代の斎藤病院正門と管理棟。

病院南側の土地が順次取得され、現在マンションの建っている更に南までが病院の土地で、総面積は五千坪ほどあった。軟式野球もできるほどの広さを持つ大グラウンドは、ここで催される大運動会や盆踊り大会で周辺住民にも広く門戸を開くなど、地域との交流の場としても有益に活用された。
木造の病棟は 昭和40年代に不燃化を推し進めるために順次建て替えられたが、外来や薬局、医局などを含む管理棟は最後まで木造のままであった。
そして昭和63年に外来を含む 管理棟もやっと建て替えられることとなり、併せて中庭部分に患者食堂兼デイルームも整備されることになった。 これらの建物は一見木造風に見える、鉄骨に軽量コンクリートの外壁という構造で、緑色という彩色から病院らしからぬ外観となっている。

赤光会  斎藤病院外観
赤光会 斎藤病院

昭和63年6月末に 新宿区四谷の斎藤神経科は閉院、斎藤病院に統合されたが、さらに4年後の平成4年11月には個人病院から医療法人財団へと移行し、「赤光会 斎藤病院」として現在に至っている。
病院の内外観が変わるとともに、この30年ほどで周辺地域もマンションだらけになるなど、街自体も大きく変化した。
百二十年ほどにおよぶ病院の長い歴史をざっと振り返ってみた。

理事長・院長  齋藤章二

赤光会  斎藤病院外観
レンガとイチョウ
東都病院に残されていたレンガ塀の一部と傍らの銀杏の木
赤光会  斎藤病院外観
ムサシノキスゲ
浅間山のムサシノキスゲ。
ニッコウキスゲの変種で今ではここでしか見られない。